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5 密林の村 別名 未定 【人】 【狼】 【墓】 【全】 (村の更新時間 23時00分 / 更新間隔 24h / 開催期間 4/13 ~ 4/18) 参加者の皆さんへ 「この人のこのご飯いいなぁ」とか思ったら、どんどん食べましょう。料理人はヨーテだけではありません。この村に参加した皆さん全員です。みんなでつくる、それがご飯。 ダイジェスト (まだ読んでいない人のため、できるだけネタバレにならないダイジェストを書き込んでください) みどころ ヨーテさんが作るご飯 三世代狼一家 墓下講座と賢薬師弟 驚きの狩人 名言集 日本の夜明けぢゃああああ! ナイト ローラント 1日目 23 01 46 【狼のささやき】 夜明けぢゃああああ! ドットの略字…【点】とか? クルセイダー グランツ プロローグ 15 27 39 【独り言】 ドットで略称つけるならやっぱり【点】だろうな ブラックスミス ルーツ 1日目 23 08 29 【独り言】 存在感も・サイズ えんでぃんぐまで なくんじゃない クルセイダー グランツ 1日目 02 01 00 【狼のささやき】 なくんじゃない 折角今日生きてたらとっておきのクナイ(のおもちゃ)をはりつけにしたグラたんに投げて 「大事な部分にhitしたようだ」 って言おうと思ってたのに。 はー・・・実に残念っす・・・ hitさせたかったっすねー ニンジャ スズメ 4日目 23 01 20 【墓場の声】 グラさん命拾い …すみませんがルーツさん、エピまでに良い鈍器をお願いできますか? プリースト エラン 4日目 23 08 40 【白ログ】 エランさん怖いです。 キャスト 配役 参加者 生死 役職 備考 傭兵 ドット master? 2日目に襲撃死 村人 セージ ザルドグロール sion 3日目に襲撃死 村人 アルケミスト ティルリナ deathangel 3日目に処刑死 村人 ニンジャ スズメ harumi20 4日目に襲撃死 占い師 ウィザード ウィンフィール blue 4日目に処刑死 人狼 CN チビ クルセイダー グランツ aki_t 4日目に処刑死 人狼 CN 塔 ブラックスミス ルーツ koke_vergiss 生存 村人 ナイト ローラント hinata_rin 生存 (C国)狂人 CN 霧 モンク ヨーテ yukina 生存 村人 ケンセイ オルド kamihate? 生存 狩人 アーチャー テム kazatoki 生存 村人 プリースト エラン s-ma 生存 霊能者 ↑ 自分のIDの後ろの?をクリックすると自分のページが作れます。 2.既存ページから作る で、「PLてんぷれ」を検索して選択すると、テンプレを持ってくることができます。 作戦 村人側一日目霊CO、霊まとめ 三日目占い師投票CO 人狼側C狂による占い師騙り 両狼潜伏 MVP (最も活躍したプレーヤーへ贈ります) MVP投票 ※ 1人3票まででお願いします! 選択肢 投票 ブラックスミス ルーツ (0) アルケミスト ティルリナ (0) ナイト ローラント (1) クルセイダー グランツ (2) モンク ヨーテ (1) ウィザード ウィンフィール (0) ケンセイ オルド (2) セージ ザルドグロール (2) アーチャー テム (0) プリースト エラン (4) ニンジャ スズメ (2) MVP投票用コメント 投票理由等の書き込みに使ってください。 名前 コメント 雑談コーナー 村の感想や、思い出話などご自由にどうぞ。 名前 コメント
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密林の進軍 前線のフォトグラフ OPERATION O-127 青 1-1-0 U 【(自動A):このカードの名称は「不整地」としても扱う】 (自動A):戦闘エリアにいる全てのユニットは、-1/-1/-1を得る。 (自動D):このカードは、敵軍オペレーションがプレイされて場に出た場合、本来の持ち主の本国の下に移る。 前線のフォトグラフのテーマである、名称を「不整地」としても扱うオペレーション。 全てのユニットのサイズを1回りずつ小さくする。 とりあえず、ボール改修型やハイゴッグ(サイクロプス隊機)、コルレルといった防御力が1点のユニットを実質的に無力化できる。防御力1のコインユニットを生産する信玄ガンダムや謙信ガンダムなどへの対策としても有効。 またそうで無くとも、部隊戦闘力を大幅に下げることができるので、本国が受けるダメージもかなり小さくなる。 更に、防御力を下げるという点からして、ガンダム(ハイパー・ハンマー装備)などが持つ火力効果とも相性がいい。 関連 不整地
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前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。
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名前 ハチ密林の樹 分類 不明 初出 ゲームオリジナル 捕獲レベル 不明 生息地 不明 概要 トリコ 爆食グルメバトル!に登場したゲームオリジナルの食材。 関連項目 猛獣・食材図鑑(ゲームオリジナル)
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密林の無法者 遂行地域 インタルディカ - セネモネアの野営地 適正レベル 取得 36 / 遂行 37 報酬 経験値 1,101,600 / 81,520 ギーナ上級 生命の秘薬(4) 関連クエスト --- 進行順序 1.NPCオコノスと会ってクエスト獲得2.野営地を威嚇するソーン メーン フリルファイマムを狩れ-ソーン メーン フリルファイマム(10)3.NPCオコノスと会ってクエスト完了
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概要 【デフェル荒野】から【ジャイラ密林】に入るところにある【試練の門】のボスとして登場するボスの片割れ。黄色い方。 相方の【密林の狩人】と共に森林に侵入しようとする者に襲い掛かってくる。 2匹あわせると秋の紅葉を思わせるような配色に見えないこともない。 特技に対してたまに怒る。怒らない限りは2ターン目で必ず【スクルト】を、 4ターン目で【バギムーチョ】を唱えるので必要に応じて消すとか逃げるとかしておきたいところ。 更に怒るとバギムーチョに加えて【ドルマドン】を、 怒りに加えて【ターンエンド】で【イオグランデ】を唱えてくるのだが、相方共々詠唱速度が早い点には注意。 唱えそうなタイミングになり次第魔結界を使うなり、あらかじめ呪文や風・氷耐性装備なりで対策しておきたいところ。 また、相方共々マホトーンも一応入る模様。 なお、通常状態だと誰か1人をマホカンタにすると、 本来攻撃呪文を使うはずだったターンはボディプレスに置き換わる可能性が高い。これは相方も同様。 相方の密林の狩人に比べると守備力が高く、スクルトを消せない場合はかなりの堅さになってしまうため、 狩人を先に倒した方がいいだろう。 ただし、魔法使いや賢者等、攻撃呪文がダメージソースな人は相方の密林の狩人にはほぼダメージが与えられないため、 攻撃呪文を使う人だけ守人を先に削るというのも手。 ちなみにこいつのスクルトは少々特殊な挙動をするようになっており、 相方に対して唱えるかのような挙動をすることがあり、スクルトを唱える際に距離を開けることもしばしば。 しかもスクルト詠唱中に相方を倒すとスクルトをなぜか中断するという謎挙動をとることも。 なお、相方がいない状態ではスクルトは唱えない。 通常ドロップ黄色の宝石 レアドロップせかいじゅの葉。 試練の門共通の特徴としてドロップがいいため、せかいじゅの葉目当てに狩られることもしばしば。 ゴールドもかなり持っているため盗んでゴールドだった場合のほうが宝石よりももうけになる。
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前節までで、差し当たり本書の議論は尽くされている。 しかし、保守主義というテーマは、いかにも誤解され易いテーマであって、有り得べき誤解に対して、あらかじめ何等かの釈明を試みて措くことは、あながち無益ではなく、むしろ必要ですらある。 もし、そうであるならば、前節までの行論の中で、当然予想される誤解について、逐一予防線を張って措けばよさそうなものであるが、そうもいかない。 何故ならば、保守主義という言葉は、本論で問題としている議論領域を遥かに越えた、極めて多様なイメージを伴って用いられているのであって、保守主義を巡る誤解もまた、その多様なイメージに因って来るものだからである。 従って、保守主義を巡る誤解についての釈明は、本論の議論水準とは一段異なった、より広い土俵において為されねばならない。 本節では、本論に述べられた意味における保守主義が、自らの呼び醒ます多様なイメージの中にあって、一体何でないのか、すなわち、保守主義とは何でないかを論じることによって、保守主義を巡る幾つかの誤解に対するささやかな釈明を試みて措きたい。 保守主義、わけても新しい保守主義と言えば、いわゆる新自由主義(Neo-Liberalism)のことかと思う向きも、あるいは少なくないかも知れない。 たとえば巷間ハイエクは、新自由主義の泰斗ということにされている。 保守主義と自由主義との関係については、おそらく最も誤解の生じ易い論点であるに相違ないので、是非とも釈明して措かねばならない。 また、保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは合理主義と個体主義を根底的に批判する、反啓蒙の思想に外ならない。 それでは、保守主義は、たとえば環境社会主義(Eco-Socialism)に代表されるような、いわゆる反近代の思想なのであろうか。 保守主義と反近代主義との関係については、近代文明における保守主義さらには進歩主義の位置付けを迫る論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 さらにまた、保守主義は、何よりも社会・文化の伝統を擁護せんとする態度である。 従って、保守主義は、たとえば日本の社会・文化に固有な伝統をどのように捉えるか、といった問題を避けて通る訳にはいかない。 保守主義といわゆる日本主義(Japanism)との関係については、保守主義の近代文明における位置付けとも複雑に絡まった論点であり、是非とも釈明して措かねばならない。 本節では、以上の三つの論点について、極簡単に触れることにする。 いずれの論点も、かなり大きなテーマであることもさりながら、本節の狙いは、飽くまで本論に述べられた保守主義を巡る、有り得べき誤解を防いで措くことに限られるからである。 この20世紀末の現代において、保守主義と言えば、自由主義、わけても新自由主義を思い浮かべることは、むしろ当然である。 19世紀の最後の四半分に端を発して1970年代に至る、ほぼ一世紀の長きに亘って、進歩主義の旗印は、福祉社会主義あるいは民主社会主義さらにはケインズ主義を含む、最も広い意味での社会主義によって担われてきた。 20世紀は、経済的成長や社会的平等といった福祉(welfare)を目的として、経済社会を合理的に管理せんとする運動が、言わば最高潮に達したという意味において、まさに社会主義の世紀だったのである。 このような社会主義の進攻に直面した保守主義が、社会主義の対抗思想としての側面を持つ自由主義と、ほとんど分離不可能なまでに接近して見えたということは、あまりに当然である。 保守主義は、19世紀を通じて真剣を交えてきた当の相手である自由主義と、社会主義なる新たな敵を前にして、公然と手を結んだかに見えたのである。 ましてや、さいもの社会主義もようやく陰りを見せ、小さな政府や自由な市場を求める新自由主義の運動が、かなりの勝利を収めたかに見える、20世紀の最後の四半分において、保守主義が、社会主義による積年の抑圧から解放された喜びを、自由主義と共に分かち合っているように見えたとしても、また、極めて当然である。 社会主義との、ほぼ百年に及んだ戦いもひとまず終わり、勝利の美酒を同盟軍と共に酌み交わすひととき、といった具合である。 しかし、保守主義と自由主義との、このような同盟関係は、うたかたの夢に過ぎない。 何故ならば、自由主義とは、19世紀を通じて、保守主義と死闘を繰り広げて来た、進歩主義の尖兵に外ならないのであり、20世紀に入って、進歩主義の旗手たるの地位を、社会主義に追い落とされたと言えども、その啓蒙の嫡出子としての本質には、些かの変りもないからである。 蓋し、自然権としての個人の自由は、人間的自然としての理性による支配とともに、啓蒙の精神の求めて止まぬ処であった。 自由主義の、進歩主義としての性格は、言わば骨絡みなのである。 従って、20世紀における、保守主義と自由主義との接近は、社会主義の凋落が決定的となった今日においては、むしろ両者間の距離にこそ注目すべきなのである。 それでは、保守主義と自由主義わけても新自由主義は、いかなる点において重なり合い、また、いかなる点において袂を分かつのか、このことが問われねばならない。 ここで注意して措かねばならないことは、自由主義と呼ばれる社会思想の中には、必ずしも社会主義と対立せず、むしろ広い意味での社会主義に含まれると言った方が良さそうなものがある、ということである。 たとえば、個人の自由を(形式的にではなく)実質的に保障するためには、個人の自由に任せて措くだけでは全く足りず、国家が、社会に対して(消極的にではなく)積極的に介入し、これを合理的に管理せねばならない、とする類いの自由主義(※注釈:いわゆるリベラリズム=マイルドな社会主義)である。 このような自由主義は、なるほど自由主義を名乗ってはいるが、社会全体に対する合理的な管理を要請するという点において、むしろ広義の社会主義と呼ぶべき主張である。 因みに、このような自由主義は、バーリーンの言う積極的自由を称揚する態度であり、19世紀末には、新自由主義(※注釈:T.H.グリーンらのnew liberalism であり、neo-liberalism とは違うことに注意)と呼ばれた立場である。(世紀末には新自由主義が流行るようだ。) ここでは、このような自由主義を、社会主義に含めて考えることにし、自由主義としては言及しないことにしたい。 自由主義とは、差し当たり、他者による強制のない状態としての自由、すなわち、バーリーンの言う消極的自由を擁護する態度である。 従って、自由主義は、国家が社会全体を合理的に管理せんとする態度と両立しない。 何故ならば、社会全体を合理的に管理することは、たとえば社会全体の福祉といった目的を効率的に達成すべく、社会に内蔵する資源を動員し行為を配列することに外ならないのであって、それは、個人が、自らの資源と行為を自由に処分することと、真っ向から対立せざるを得ないからである。 言い換えれば、社会全体の合理的な管理は、国家による個人に対する何等かの強制、すなわち、国家による個人の自由の制限を、不可避的に含意しているのである。 もっとも、自由主義は、国家による個人に対する強制の総てを否定する訳ではない。 たとえば、個人の行為が、他者の自由を侵害して為される場合、国家が、その行為の差し止めや、他者に与えた損害の賠償などを、個人に強制することは、自由主義と言えども全く否定しない。 むしろ、自由主義とは、個人の自由を他者による侵害から保護することにこそ、国家の役割があるとする主張とさえ言い得る。 しかし、国家が、個人の(消極的)自由を、その侵害から保護することと、個人の(積極的)自由を、たとえば無知や貧困や失業やといった、その障害から解放するために、社会全体を合理的に管理することとは、全く異なる事態なのであって、自由主義は、前者の国家のみを肯定し、後者の国家を厳しく否定するのである。 従って、自由主義は、社会全体の秩序を、(他者の自由を侵害しない限りにおける)諸個人の自由な行為に委ねることになる。 すなわち、自由主義は、社会全体の秩序を、国家が合理的に設定するものではなく、諸個人の自由な行為の累積的な帰結として自然発生的に生成されるものである、と捉えるのである。 因みに、ハイエクの言う自由主義とは、まさにこの意味における自由主義に外ならない。 ハイエクは、社会を合理的に設定された組織として捉える、最広義の社会主義に抗して、社会を自然発生的に生成された自生的秩序として捉える、このような自由主義を擁護するのである。 この意味における自由主義が、保守主義とほとんど過不足なく重なり合っていることは明らかであろう。 すなわち、この意味における自由主義は、社会を合理的に管理せんとする進歩主義に対抗する、保守主義の一局面そのものなのである。 しかし、そうであるからと言って、自由主義のあらゆる局面が、保守主義と一致する訳では必ずしもない。 自由主義には、社会を、個人の意図や情緒や欲求やに還元し得るし、また、すべきであるとする傾きが、避け難く存在している。 たとえば、社会のルールとしての法を、自然権を保有する自由な諸個人の合意に還元する、社会契約論や、さらには、社会のルールとしての法を、何ものにも制限され得ない自由な主権者の意志に帰着する、主権論といった、近代啓蒙の個体主義は、いわゆる自由民主主義として、今日なお、自由主義の内にその命脈を保っている。 自由主義は、なるほど、近代啓蒙の合理主義に対して、保守主義とその批判を共有しているのであるが、しかし、近代啓蒙の個体主義に対しては、必ずしも一線を画してはいないのである。 この意味において、自由主義は、依然として、進歩主義の一翼を担っている。 因みに、急進的な自由主義が、何ものにも制限され得ない国民主権を標榜する、無制限の民主主義に変転する例は枚挙に暇がない。 個人が自らの行為を自由に選択し得るとするならば、自らの属する社会の制度もまた、自らの自由な同意に基づいて選択されるべきだ、という訳である。 保守主義が批判するのは、まさに、このような無制限の民主主義に外ならない。 なるほど、保守主義にとっても、個人の行為は自由に選択され得るものであり得るが、しかし、社会の制度全体は、個人の行為を可能にする前提となりこそすれ、個人の合意によって自由に選択され得るものでは決してあり得ない。 従って、保守主義は、このような無制限の民主主義を帰結する、いわば社会契約論的な自由主義とは、全く両立し得ないのである。 因みに、ハイエクは、このような無制限の民主主義を峻拒している。 すなわち、ハイエクもまた、保守主義と同様に、社会契約論的な意味における自由主義とは、ついに両立し得ないのである。 従って、保守主義は、社会を諸個人の自由な行為の累積によって生成される秩序として捉える、言わば自然発生論的あるいは慣習論的な自由主義とは、ほとんど過不足なく重なり合うが、社会を諸個人の自由な意志の一致によって設定される秩序として捉える、社会契約論的あるいは自然権論的な自由主義とは、全く両立し得ない。 また、保守主義が、社会を諸個人の欲求の自由な実現のために(国家が)制御すべき対象として捉える、いわゆる功利主義的な自由主義(ここでは社会主義に含めた)と、鋭く対立していることは言うまでもない。 言い換えれば、保守主義は、自由主義のヒューム的(慣習論的)な伝統には極めて親しいが、そのロック的(自然権論的)な伝統、さらには、そのベンサム的(功利主義的)な伝統には全く疎遠なのである。 現代における自由主義の復興は、そのベンサム的な伝統を排除することにおいては、なるほど意見の一致を見ているが、そのヒューム的な伝統あるいはロック的な伝統のいずれを継承するかについては、必ずしも意見の一致は見られない。 ハイエクのようにヒューム的な伝統に棹さす者もいれば、ノージックのようにロック的な伝統の嫡流たらんとする者もある。 いずれにせよ保守主義は、自由主義あるいは新自由主義のあらゆる潮流と手を結び得る訳ではない。 保守主義は、自由主義のただ一つの潮流とのみ与し得るのである。 あるいは、そのような自由主義は、自由主義の一つの潮流であると言うよりも、むしろ保守主義そのものであると言うべきなのかも知れない。 蓋し、自由主義のヒューム的さらにはバーク的な伝統こそが、保守主義の本流を形成してきた当のものに外ならないとも言い得るからである。 保守主義は、近代の産業主義と民主主義、あるいは、啓蒙の合理主義と個体主義を懐疑する、反啓蒙の思想である。 それでは、保守主義は、近代文明を否定しまた超克せんとする、反近代の思想であるのか。 ここに、保守主義を巡る、最大の陥穽が潜んでいる。 本書で明らかにしたかったことは、啓蒙の合理主義と個体主義とが、あたかも、その最も誇るべき価値であるかのように見なされている近代社会と言えども、社会という事態である限り、啓蒙の合理主義と個体主義とによってはついに捉え得ない、第三の性質を俟って始めて存立し得るということである。 すなわち、近代文明もまた、一個の文明である限り、啓蒙の精神の最も忌み嫌う、何等かの伝統に係留されて始めて存続し得るのである。 従って、反啓蒙の思想は、必ずしも反近代の思想ではあり得ない。 むしろ、反啓蒙の思想は、近代という社会の存立の秘密に接近し得る、ほとんど唯一の思想なのである。 この反啓蒙の思想と反近代の思想とを取り違えた処に、保守主義を巡る、幾多の悲喜劇が生じたのであった。 なるほど、保守主義を貫く反啓蒙の精神は、時として、近代文明そのものを拒絶しているかのようにも見受けられる。 たとえば、バークが、フランス革命を否定するに当たって、あたかも、中世への復帰を唱導しているかのように見える処がない訳ではない。 あるいは、日本において、伝統への回帰が語られる時、あたかも、古代の復古が号令されているかのように見えることもないとは言えない。 しかし、真正の保守主義は、いまここに生きられている社会をこそ、その存立の秘密の顕わとなる深みにおいて肯定せんとする営みなのであって、いまここに生きられている社会を、少なくともその最深部において否定し去ることなど決してあり得ないのである。 いまここに生きられている社会とは、差し当たり、近代社会の外ではあり得ない。 あうなわち、保守主義は、反啓蒙の精神を採ることによって、いまここに生きられている、近代という社会を、その存立の深みにおいて肯定せんとしているのである。 しかし、そうであるからと言って、近代を肯定することは、古代や中世を否定することでは些かもない。 真正の保守主義は、近代の社会を存立させている秘密と、古代や中世の社会を存立させていた秘密とが、それほど違ったものではあり得ないことを、重々承知しているからである。 社会を存立させる秘密の顕わとなる、その最深部においては、時代の如何に拘わらず、常なるもの、すなわち、伝統が、生きられているのである。 啓蒙の精神とは、古代や中世やさらには近代において生きられている伝統の一切を否定して、人間の理性と個人の自由の下に、全く新しい社会、すなわち、彼らの言う近代社会を建設せんとする試みに外ならない。 保守主義は、啓蒙の精神を懐疑することによって、古代や中世の伝統を生きられたそのままに肯定する一方で、それが、近代社会の存立をその最深部において支えている伝統と、それほど遠いものではなく、むしろ、密かに連なりさえしていることを承認するのである。 すなわち、保守主義は、生きられている伝統を擁護することによって、啓蒙の進歩主義ばかりが如何にも目立つ近代文明を、その最深部において肯定しているのである。 従って、保守主義は、反近代主義ではあり得ない。 保守主義は、たとえばマルクス主義や国家社会主義のように、近代の超克を志している訳でもないし、たとえばロマン主義や環境社会主義のように、前近代の桃源郷を夢見ている訳でもない。 マルクス主義や国家社会主義は、反近代を標榜しているにも拘わらず、実は最も急進的な合理主義を帰結するという意味において、まさしく啓蒙の嫡出子と呼ばれるに相応しいし、ロマン主義や環境社会主義は、なるほど反啓蒙の思想ではあるが、近代文明の唯中に、帰るべき常なるものを見出し得なかったという意味において、ついに反近代の思想でしかあり得ない。 マルクス主義や国家社会主義は言うまでもなく、ロマン主義や環境社会主義もまた、ついに保守主義ではあり得ないのである。 さらに、わけても環境社会主義は、たとえばエコロジーや反原発といった、その反近代の運動において、極めて急進的な個体主義の様相を呈することが、少なくないのであって、むしろ、啓蒙の自然権論を体現していると言っても、ほとんど言い過ぎにはならないのである。 総じて、マルクス主義や国家社会主義、さらには環境社会主義をも含む、比較的狭い意味における社会主義は、最も急進的な啓蒙主義以外の何ものでもない。 保守主義は、このような反近代の仮面を被った啓蒙主義とは、決して両立し得ないのである。 保守主義は、人間とその社会が、何等かの伝統に係留されて始めて存立し得ることを強調する。 しかし、社会やあるいは文化の伝統とは、(本書に述べられた《遂行的なるもの》であるがゆえに)その具体的な様相に一歩でも踏み込もうとするならば、それが遂行されている地域や歴史に相対的なものとして示されざるを得ない。 すなわち、具体的に生きられている伝統は、たとえば、イギリスの伝統であり、日本の伝統であり、あるいは、東京の伝統であり、京都の伝統であり、はたまた、西ヨーロッパの伝統であり、東アジアの伝統なのである。 従って、保守主義が伝統を擁護すると言った場合、その擁護すべき伝統は、具体的には、何等かの地域や歴史に固有な伝統であらざるを得ないことになる。 言い換えれば、保守主義は、具体的には、地域あるいは歴史に固有な保守主義としてしかあり得ないのである。 従って、たとえば日本において保守主義を語ることは、取りも直さず、日本において生きられている伝統を擁護する、日本に固有な保守主義を語ることに外ならない。 それでは、そのような保守主義は、自文化中心主義、ナショナリズム、あるいは日本主義と、どこが違うのであろうか。 日本の保守主義など、皇国主義と大同小異ではないのか。 このような疑問が当然に生じて来ると思われる。 さらに、このような疑問は、日本に特徴的なもう一つの事情によって、いよいよ深まらざるを得ない。 なるほど保守主義は反啓蒙の思想であった。 しかし、そもそも啓蒙思想とは、西欧近代において誕生した、西欧近代に固有の思想に外ならない。(もっとも、啓蒙思想が西欧に固有な思想であるか否かは、なお検討すべき課題である。) 西欧近代は、その色鮮やかな表層のみに目を奪われるならば、あたかも、啓蒙思想一色によって塗り潰されているかのように見受けられる。 言い換えれば、保守主義は、反啓蒙の立場を採ることによって、反西欧の態度を帰結するのではないか。(保守主義が、反近代の態度を帰結し得ないことは既に述べた。) すなわち、保守主義は、その西欧における機能はいざ知らず、日本を含む非西欧においては、啓蒙という名の西欧文化中心主義あるいは西欧文化帝国主義に対抗する、反西欧の思想として機能しているのではないか。 このような推測のしばしば行われていることも、無下には否定し得ない。 もし、このような推測が、当を獲たものであるとするならば、日本の保守主義は、反西欧主義という意味において、ますます日本主義に接近するのではないか。 なるほど、日本主義は、近代の合理主義と個体主義との対極にあるとされる、日本の伝統に立脚した、反啓蒙の思想であることには間違いない。 しからば、日本の保守主義は、反啓蒙の伝統文化の咲き誇る東亜の盟主として、啓蒙の革新文明に堕落したあ西欧に宣戦すべきなのであろうか。 しかし、ここで想い起こすべきは、保守主義が、反近代の思想ではついにあり得ないということである。 すなわち、保守主義が、伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここで生きられている近代社会の存立を、その深層において支えている伝統に外ならないのである。 従って、日本の保守主義が、日本の伝統を擁護すると言った場合、そこで語られている伝統は、いまここに生きられている日本近代の存立を、その深層において支えている伝統の外ではありえない。 言い換えれば、日本の保守主義は、近代文明の日本における顕現を、その深層において、肯定しているのである。 現代の日本において生きられている社会が、紛れもなく近代社会である以上、日本の保守主義は、日本の近代社会に、肯定すべき何ものかを見出さざるを得ない。 保守主義とは、そういったものなのである。 従って、日本の保守主義は、日本の伝統を、それが反近代であるから擁護するということでは些かもない。 むしろ、それが日本近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 この間の事情は、西欧においても全く変わりはない。 たとえば、イギリスの保守主義は、イギリスの伝統を、それがイギリス近代の存立に不可欠であるからこそ擁護するのである。 このように言えば、イギリスの伝統と日本の伝統とは全く違う、といったお馴染みの議論がすぐにでも思い浮かばれよう。 もとより、イギリスの伝統と日本の伝統とが同じである筈もない。 しかし、近代文明における反啓蒙の橋頭堡という意味においては、彼我の伝統は、いわば機能的に等価なのである。 すなわち、近代文明における啓蒙の精神は、近代文明の圏内においては、ほとんど同一であり、その意味において、普遍的である。 さらに、近代文明が、啓蒙の精神のみによっては存立し得ず、反啓蒙の伝統を俟って始めて存立し得るという事態もまた、普遍的である。 しかし、近代文明の存立に不可欠な反啓蒙の伝統が、具体的に何であるかとなると、これは、近代文明の圏内においても、様々であり得る。 すなわち、近代文明という、いわば地球大の文明の存立に不可欠な伝統は、近代文明の圏内にある様々な文化に固有な伝統以外ではあり得ないのである。 言い換えれば、近代文明とは、それを担う様々な文化に固有な伝統を前提として、始めて可能であるような文明なのである。 従って、近代文明において、啓蒙の進歩主義は、なるほど普遍的であり得るが、反啓蒙の保守主義は、反啓蒙という一点を除いては、決して普遍的ではあり得ない。 近代の保守主義は、反啓蒙という機能においては等価であるが、それを担う実体としては異文化である、固有の伝統のいずれかに係留されざるを得ないのである。 これは、社会あるいは文化の伝統が、本書に述べた《遂行的なるもの》であることの、ほとんど必然的な帰結である。 このような立論は、近代文明と西欧文化との間に如何なる差異も認めない向きにとっては、なかなか理解し難いものであろう。 しかし、近代文明とは、ほとんど全地球を覆う、優れて普遍的な文明なのであって、西欧文化や日本文化をも含む、極めて多様な文化あるいは社会によって担われている、と考えることはそれほど無理なことであろうか。 古代や中世の歴史においては、単一の普遍な文明が、多数の固有な文化あるいは社会によって担われている例は、枚挙に暇がない。 中国文明、インド文明、イスラム文明、ギリシア・ローマ文明など、総て、そのような文明の例である。 そもそも、文明と呼び得る程にも普遍的であり得るためには、その内部に少なくとも複数の分化あるいは社会を包含していることが、ほとんど必須の条件であると言ってもよい。 近代文明もまた、そのような文明の一つなのである。 従って、西欧の社会も、日本の社会も、それが近代文明を担っている社会の一つであるという点においては、些かの相違もない。 しかし、それらの社会が、近代の社会として存立するに当たって、具体的に如何なる伝統を不可欠なものとしているかについては、それぞれに固有の事情が介在しているのである。 たとえば、イギリスの近代社会の存立に当たって、間柄主義の伝統の不可欠である筈もなく、あるいは、日本の近代社会の存立に当たって、アングリカニズムの伝統の不可欠である筈はない。 いずれにせよ、近代の保守主義は、普遍的な近代文明の存立にとって不可欠な伝統を、個別的な地域文化に固有な具体性の中に見出していかねばならないのである。 このような保守主義が、単純な自文化中心主義やナショナリズム、あるいは反西欧主義や日本主義に、そう易々と陥り得ないことは明らかであろう。 保守主義は、いまここに生きられている社会が、近代文明の下にある社会であることを、よく承知している。 さらに、保守主義は、自らの社会に固有な伝統を擁護することが、近代文明の下にある総ての社会にとって、不可避の要請であることも、また、よく承知している。 従って、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明の下にある総ての社会において、生きられるべき普遍の伝統となり得るなどとは夢にも想わない。 ましてや、保守主義は、自らの固有な文化が、近代文明それ自体と対抗せざるを得なくなるとは、全く考えもしない。 保守主義は、自文化中心主義やナショナリズム、さらには反西欧主義や日本主義では、ついにあり得ないのである。 しかし、そうは言っても、近代文明と、それを担っている地域文化、わけても西欧文化との判別は、かなり複雑な課題である。 どこまでが近代文明の普遍的な特徴であり、どこまでが西欧文化の個別的な特徴であるかは、極めて識別の困難な課題なのである。 従って、西欧の保守主義はいざ知らず、日本の保守主義は、近代文明の唯中に極めて分離し難く纏わり付いている西欧に固有な伝統と、自らに固有な伝統との葛藤を引き受けねばならない。 近代文明の下における、地域文化相互間の葛藤は、依然として開かれた問いなのである。 しかし、近代文明が、地域的な固有文化を超えた、全地球的な普遍文明であり得るとするならば、この問題は、必ずや解決されるに相違ない。 そのとき、保守主義の擁護すべきは、地球文明の存立にとって決して逸することの許されない、全地球的に生きられる言わば普遍の伝統であるのかも知れない。 そのときに在っても保守主義は、地球文明のキー・ストーンとして、なお生きられねばならないのである。
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557 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 10 55 10 ID ??? 流れぶちきりで申し訳ないがこの前の卓であったプチ報告。 アルシャードGAIAをやったんだけど、その中にシステム初心者がいた。 モチベーション維持しやすいし、クエスター成り立てという設定だからやりやすいだろうってPC1をやることになった。 で問題がGM、ロールプレイ至上主義者なのかリアルリアリティーかしらないけど、アクションや演出を明記しないと許可しない。 経験者である俺たちも 「じゃあ○○で防ぐ」 GM「どんなふうに?」 「えと…剣で弾く」 GM「××は受けれないので別の演出してください」 こんな感じ 一番問題だったのは、ガイア(なんでもありの神業)の演出で、敵に洗脳されたヒロインを救う演出だった ダメ出しくらいまくってプレイヤーがプチムギャオー 「なんでデータで保証された効果が発揮できないの?」 GM「出来るからって過程ないと結果でないでしょ?」 とGMにくってかかる一幕もあった。 休憩もらって全員で相談してGガン最終話やるでおちついたけど この段階で全員精根尽き果てそのあとの最終戦とエンディングは惰性でやってた 558 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 10 57 06 ID ??? いるなぁ、リアルリアリティ厨 報告乙 まぁプチではあるけど、その初心者は災難だったな 後、ぶっちゃけ加護の力なんだからガイアで洗脳とくのは過程も何もないだろw 559 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 03 39 ID ??? そのGMは過程を想像する能力が欠如してるんだろう だから具体的に言ってもらわないと理解することが出来ない もちろん他人がどう感じるか想像する能力も欠如してるんだろうな 560 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 06 42 ID ??? そういうGMは自身がPLやっても下手 561 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 33 07 ID ??? きっと無駄に、うざいぐらいに自分の行動や内心を描写するんだろうな。 562 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 45 00 ID ??? 561 1アクション毎にノベルゲー並に描写するかもな。 そりゃガイアつかう 洗脳とく→とけたぉ より、なんか台詞あった方が燃えるだろうけど… 余りにも超常的な効果出すとき説明出来ないこともあるよな 563 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 45 12 ID ??? 魔法や奇跡がある世界で、いちいち剣じゃ〇〇は受けられないとかいって、 白けさせるGMとか、なんやねん・・・ そりゃムギャオーするよな 564 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 47 05 ID ??? 行為の成否を判定に委ねるのがゲームであって演出はオマケだろうになー 散々演出させて修正+1とかさせるGMがいたなあ 565 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 48 25 ID ??? ボーナス上げるのはいいんじゃないかな でも基本的にはデータ優先演出後付だからな 俺も、余程変でない限りは通す 566 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 55 51 ID ??? 演出で修正を加えるのって難しいよな でも演出で元々不利な判定を有利に傾けようとするのって 口プロレスと変わらんところがあるか 567 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 11 58 00 ID ??? その辺りはバランスだと思うけどね 俺は言ってることが正しいと思えれば有利にするかな 本来的には全部認めちゃいけないんだけどな 570 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 12 39 55 ID ??? リアリティは求めないけど、やたら熱い演出だの、なりきったロールプレイを求めてくるGMもいるよな。 要するに「俺の好きなプレイだけ認めてやる」ってGM。 うぜー。 579 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 14 22 51 ID ??? 黒ちゃんにもなかったっけ? 「スキルがあるということはPLは出来なくても、PCには技術があります」ってやつ。 行き着く先は、ガンスキルを使いこなす為にはPLも銃器の取扱が出来なきゃいかんことになるしな 584 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 15 36 15 ID ??? 579 行き着く先は、「交渉技能使いたいならちゃんと台詞でしゃべってくれ」じゃないかな 万人を感動させるような台詞なんて、PLが簡単に思いつくわけないんだけどなー 586 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 15 42 57 ID ??? 576 オレがGMだったら、「何処で」「誰に」「何を」くらいは言って欲しいかな。 例えば「酒場でオヤジに『山賊のことを何か知らないか』聞いてみます」とかね。 まあその上で判定させるんだけど。 もしPLが「情報収集したいんだけど、やり方が良く分かりません」だったら、 ぶっちゃけそう言って欲しい。それならGMも 「君のPCは戦士だね。OK、安酒場に行けば君と同じような格好の傭兵に話が聞けるだろう」 とかの助言は出来るわけだし・・・ 587 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 15 44 39 ID ??? 初心者プレイヤー相手だったらGMがほとんど演出するぐらいがいいと思うんだ。 PC1「ガイアの加護で洗脳を解きます」 GM「では、あなたのシャードから優しい光が発せられる。 すると、焦点の定まらなかった彼女の瞳が、みるみる光を取り戻してゆく。 洗脳は解けたようだ。『あれ、ここは・・・』」 595 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 16 12 02 ID ??? 584 昔ガープスやってた頃、サークルの先輩に戦闘関係の技能しか取らない成長させない人がいた。 なんでですか?って聞いたら、交渉や調査はプレイングでカバーできるからと豪語してたのを思い出す。 確かに口の達者な人で、ほとんどのGMを言いくるめてたし、それなら戦闘関係の数値しか必要なかった。 のを思い出したぜw 597 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2008/06/19(木) 16 19 55 ID ??? 595 戦闘もプレイングでカバーできて一人前だろ その先輩もたいした事ないな 冗談はさておきそういう口プロレスに嫌気が差した プレイヤーが多くなったんで情報収集判定とかが成立したんだよな 演出と実データーを完全に分離する工夫とかもそうだな スレ185
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とこやみの森 ★×7 ~こもれびの空間~ 密林の暗殺者 BOSSモンスター モンスター名 使用技 備考 デスサイザー バイキルト ホーンビートル がんせきおとし カマキリせんし [攻略のコツ] ペナルティは無し。 [報酬] 5000G サンダル だいくどうぐ [獲得経験値] 8000 [獲得ハンターポイント] 200P ―追加情報はこちらに― 名前 コメント
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病んでないよ過保護な澪さん もうちょっと書いてみた。 音楽室 唯「あずにゃんぎゅー」ギュー 梓「辞めてください!唯先輩!」 唯「良いじゃん良いじゃん」 梓「やだ!まだ死にたくない!離してー!」ジタバタ 唯「え?」 澪「・・・・・」 梓「唯先輩!本当に殺される!」 澪「ほら唯、そんなにぎゅーしたかったら私にしなよ」 唯「わーい澪にゃんぎゅー」ギュー 澪「」ニヤリ 授業 先生「秋山さん。これを解いてみてください」 澪「私は唯の座布団で忙しい。それに唯が私を離さないでって言ってくるんです。そもそも何故私何ですか?」 先生「良い質問ですね。何故私が秋山さんに当てたかと言うと・・・」クドクド 澪「」ニヤリ 先生「ああ、もうこんな時間ですか。ではまた来週」 澪「」 唯「」 律「寝てるし」 ひるめし! 憂「お姉ちゃんお弁当忘れてる」 唯「憂ありがとー」 憂「もう気を付けてね」 澪「待ってくれ憂ちゃん。唯は私のお弁当を食べるんだよ」 憂「・・・」ギリ 澪「・・・・・」 唯「・・・・・両方貰うよ」 澪「あ!すまない唯。立ってて疲れただろ。ほら」ヒョイ 唯「///」 律「そりゃお姫様抱っこだもんな」 唯「っていう夢も見たんだよ~」 梓「・・・・・」 律「ないない」 紬「そんな澪ちゃん見てみたいわ~」 澪「・・・・・」 グイッ 唯「あれ澪ちゃんどうしたの?」 澪「唯の座るとこは私の上だろ。唯のためなら喜んで貸すよ。私の唯。うふふふ」 唯「え?」 梓(見てしまったんです私。唯先輩を見つめる澪先輩の瞳が濁っていた事に) おわり BACK:憂でも驚く過保護な澪さん 戻る TOP